鶴見臨港鐵道株式会社

◆鐵道還元運動

 この運動については社内の記録は希薄ですので、「南武線物語」(著者:五味洋治/発行:多摩川新聞社)記載から一部引用させて頂きます。詳細は本書をご参照下さい。


 昭和17年から19年にかけて戦争を理由に買収された私鉄は全国22社にのぼったが、戦後、当社も参加して南武鉄道をはじめ宮城電鉄、青梅、奥多摩、南海電鉄、小倉鉄道の計八社で「払い下げ期成同盟」が発足した。
 昭和23年6月の第二国会の参議院で払い下げ法案が取り上げられたが、準備不足もあり会期中に審議できず、昭和23年9月の第三回国会の運輸委員会でも話し合われたが審議未了。昭和23年11月、運輸大臣が払い下げ問題を国鉄審議会に諮問したが、審議会は「積極的に払い下げしなければならない理由の発見に苦しむ」として門前払いとした。その後昭和24年2月、吉田首相が「一部国有鉄道や煙草専売事業は民間に払い下げすべきだ」と語ったことが新聞で大きく取り上げられ、再び注目を集めることとなった。その後昭和24年5月の第五国会、衆議院本会議で「戦時中政府が買収した鉄道の譲渡に関する法律」案が上程された。

「戦時中政府が買収した鉄道の譲渡に関する法律案」とされる書類:鶴見臨港鐵道保管

 第一条で「この法律は、今次の戦争に際し政府が地方鉄道會社から買収した鉄道のうち、旧所有會社又はこれと関係あるものにその希望に応じて譲渡することにより、地方鉄道を強化し地方交通の利便を促進すると共に、日本国有鉄道の財政の改善に寄与することを目的とする」とうたい、内容は第二条で日本国有鉄道に属する鉄道の譲渡に関する重要事項を審議決定するため、運輸大臣の下に国有鉄道譲渡審査委員会をおき、第三条で委員会は運輸大臣の諮問に応じ、政府買収の鉄道のうち譲渡の申請のあるものにつき、その鉄道の目的、位置、利用状況、終始の状態その他を考慮して譲渡の可否を決定することとし、第四条で委員は九人で構成し、第五条で委員については運輸又は経済に広い経験と知識を有するもののなかから両議院の同意を得て内閣が任命することとした。譲渡申請者は第十二条で政府買収された鉄道會社に限定し、運輸大臣は譲渡申請書を受領したときは遅滞なく委員会に諮問することとされ、委員会は譲渡の可否と条件を決定し運輸大臣に答申することとされた。結果運輸大臣は委員会の答申を受け、譲渡すべきものにあっては日本国有鉄道総裁及び譲渡申請者にその決定に基づいて契約を結ぶことを命令し、譲渡をしないものについてはその旨をそれらに通告することとされていた。なお、譲渡の価額については第二十一条で地方鉄道法第三十一条乃至三十三条の規定を準用して算出した金額を基準として公正妥当に定めるものとされ、支払方法については會社買収された際の代価である国債証券で支払うことができるとし、その引渡価格は時価及び政府がその国債保有を命じた期間における価格の低下の補償を参酌し大蔵大臣が定めるとしていた。
 
 結果として、衆議院では白票(賛成)213に対して青票(反対)100となり、圧倒的多数で可決され、参議院に回されたが、その後将来に不安を感じる国鉄の労働組合などが猛烈な反対運動を繰り広げ、沿線企業を回り、私鉄化反対を訴えた。払い下げ反対の請願、陳情と促進側からの請願、陳情が提出され、結局参議院で審議未了となり廃案に追い込まれることとなります。確かに戦争中米軍の空襲で鉄道施設壊滅して鉄道運行できない状況でも社員に給料が払われたかは定かでありませんが、そうした経験をすると国営でまだ良かったと思うことは想像できますし、戦後の混乱期とGHQ統治下、財閥解体で資本力の乏しい私鉄に転籍することに不安を感じることは理解できます。

 当社に関して考えますと、価値の目減りした戦時公債と交換で戦時買収当時のまま元通り引き継げたならば、それなりに設備更新しそれまでよりもよりよいサービスを提供できたかとも思いますが、実際のところ戦争で傷んだ鉄道施設及び貨客車の更新資金もままならず、相当な財政支援が必要だったろうと思います。

 また、その後の高度成長期及びその後のモータリゼーションへの移行に伴う鉄道貨物輸送量の減少甚だ激しく、それに伴う要員の雇用調整を1社で行うには相当困難だったろうと思います。またコスト高で運賃が高くなれば株主でもある沿線企業からは昭和恐慌時と同様の値下げ圧力を受け利害衝突に陥っただろうと推察されます。国鉄だから赤字であっても国内鉄道事業全体である程度調整可能だったと言えるのかもしれません。

 最後に、「鶴見臨港鉄道民営還元に就いて」と題する当時の残された当社経営者の言葉と思われる文書を添えします。この文書が当社の歴史の多くを物語っているように思います。
「鶴見臨港鉄道民営還元に就いて」