鶴見臨港鐵道株式会社

◆関毅(せき はたす)氏の功績

 当社の歴代経営者の中で関毅氏は極めて重要な役割を担ったものと思われます。創業者浅野總一郎は昭和5年、関毅は昭和14年に亡くなりますが、浅野總一郎の功労金は昭和13年、関毅の弔慰金は昭和14年に重役会にて承認されております。実は関毅氏の方が創業者よりも多い額となっておりまして、このことからも関毅氏の当社における貢献が絶大なものであったことを物語っているように思います。
 以下で記載することは推測のものが多く確証はありませんので、万が一事実と違っていたらご容赦下さい。

 関氏は、栃木県出身で明治43(1910)年東京帝国大学土木工学科卒業。大学卒業後、鉄道院(国鉄の前身)で技手を勤めていましたが、東大時代の恩師であり「港湾工学の父」と呼ばれた廣井勇教授の推薦により、発足当初の鶴見埋築株式会社に招聘され、国産電動ポンプ船開発の中心を担い、京浜工業地帯の埋立を指揮し基盤をつくりました。その後東京湾埋立専務取締役として東京湾の埋立でも尽力しました。鶴見臨港鐵道では創業間もない大正13(1924)年10月主事を嘱託(38歳)。大学卒業後鉄道院に勤務しており、東京湾埋立で支配人として埋立にも大きく関わっており、創業期の鉄道敷設事業の担当は正に適任であったと思われます。その後昭和3年取締役、昭和4年常務取締役。昭和14年逝去となります。
 
 関氏の当社への入社は大正13年10月となっておりますが、その年の第1回営業報告書(大正13年11月期)の2ページ目社名の箇所に関氏の印鑑が押されております。この文書が関氏直筆なのか否かは定かでありませんが、その他直筆と思われる株式引受証などを拝見すると相当の達筆であり、営業報告書の作成責任者及び筆跡も関氏直筆に違いないかと思われます。これと類似の文書に「鶴見臨港鐵道要覧」沿革があります。これらは埋立事業と鉄道事業それぞれに責任者として精通した関氏でなければ書けない文書ではないかと推察します。また、大正13年7月25日付の重役会決議書によれば、銀行取引開始にあたり小切手振出人の名義は社長の浅野總一郎とその代理人として関氏を取り決めていることから考えますと、正に浅野總一郎の代理人であり、現代風に言うならば浅野總一郎がCEO(最高経営責任者)、関毅氏はCOO(最高執行責任者, ChiefOperating Officer)のような役割であったように思います。
 
 また、社内の記録をみれば創業前の大正12年から埋立地連絡鐵道敷設について、東京湾埋立且x配人として埋立地進出企業各社との間で協議を重ね準備を進めており、大正13年5月5日付の創立委員会稟議書第壱号に「會社創立に到る迄の事務嘱托の件」として関毅氏、吉野美都義氏、鯨井修三氏に致すこと、そして顧問技師として鉄道省技師平井喜久松氏に施工認可申請に要する実施設計の作成其の他を嘱托致すこととされております。つまり関氏は技術者としてのみならず事務責任者として創業に大きく関わっていたことになります。そして大正13年7月25日の創立總會においては沿線企業株主の多くから関毅氏への議決権行使の委任状を取り付けております。つまり東亜建設工業鰍フホームページでは「ポンプ船の父」と紹介されておりますが、実は京浜工業地帯創造という浅野總一郎の思い描いた壮大な夢を実現(埋立事業⇒用地販売⇒鐵道事業組成⇒生産増強支援)した最大の功労者は間違いなく関毅氏であったと思われます。農業国であった黎明の日本を産業化し、列強に劣らない工業国として飛躍発展させる契機となったこの壮大なプロジェクトが完成に帰結したのはまさにこの二人の巡り合わせによるものと言えます。

 当社の社内文書を紐解いて興味をそそられる文書に、昭和2年5月5日付「事業計画及収支予想」という書類があります。これは重役会決議「建設事業金融に関する件」に添付された書類で鐵道建設工事の工事進捗と今後の資金繰りをどうするか経営として方向性を取りまとめる為、長期の事業計画を策定したものです。

事業計画及収支予想(昭和2年5月5日付)

 上記書類は何を言っているかというと、将来の貨物の出貨予想と旅客乗客数見込みから収入予想をたて、今後の鐵道建設計画の工事費を見込みその支払計画を想定、甲)現資本額によるケース、乙)資本金600万円に増資し増資株式の内120万円を払い込むケース、丙)資本金600万円に増資し、270万円を払い込みするケースという三案で損益計算を行い、結論として「各案ニツイテ営業収支予想ヲナスニ別紙ノ如ク利益率ニ於テハ大差ナキモ甲案ニ依ルトキハ毎期支払利子多額ニシテ万一収入不振ナル場合ニハ営業困難ニ陥ルコト明ナルヲ以テ、少クモ鐵道事業ノ如キ比較的多額ノ建設費ヲ要シ、利益漸進ノ事業ニ於テハ少クモ乙案ヲ以テ遂行スルヲ妥當トス。」と記載されております。なお、この議案は可決されておりますが、必要に応じ払込金と借入金を平行同額となす事を銀行又は信託銀行と協定することとされ、確かに決算書をみると未払込株金の推移と支払手形(借入)の推移は平行するよう推移しております。

 電卓もパソコンもない昭和2年にして、未だ開始されていない旅客運輸(旅客開始は昭和5年10月)の収入を予測し、今後10年に及ぶ鐵道建設工事を見込み、その収入と支出から借入金の利息計算、税金支払、そして役員賞与、配当金まで網羅した損益計算を三通り集計し、今後の資金調達はどうあるべきかを結論づけています。

 この計画の何が素晴らしいかというと、その理論構成であり、単なる土木屋や事務屋であったら考え及ばない着眼から策定されています。たとえば鶴見町の人口増加率から鉄道の利用者数はその増加率を上回ると想定、毎年の旅客の乗車人数を算出し、一人平均乗車距離を2.5哩(マイル)、賃率を1哩に付3.0銭として計算。その元データも緻密で省線から阪急線に至るまでそれぞれの運転間隔や一日一哩収入がいくらであるか、東海道から山ノ手、大阪市電、南海など数多くの鉄道線を参考にしながら設定した運賃が海岸軌道線とも競争し得るとしています。更には貨物についてはまだ本格化していない状況でありながら各工場の出貨予想をたて、昭和8年には年間で143万噸と予想しております。結論として、「何レノ方面ヨリ考フルモ1,500,000屯位ノ出貨ヲ以テ今後六年見込ミ得ルガ如ク結局三百万乃至四百万屯ニ達シ得ル時期アルガ如シ、本計画ニ依ル輸送限度ハ約二百万屯程度ナルベク其ノ後ニ於テハ更ニ新線ヲ建設スルヲ要ス」とあります。

 実際のところの推移を「貨物輸送量推移」で確認して頂ければ分かりますが、昭和8年の出貨総量は85.6万噸となっていて、昭和恐慌の影響で想定したところまで伸びておりませんが、昭和17年には212万噸となり輸送限度を超えていたことがわかります。創業間もない昭和2年に既にこの路線の輸送限界を分析理解し、長期計画を策定できていたからこそ、その後のさまざまな経営危機を回避できたものと思います。こうした土木・事務に留まらない鉄道事業に精通した者でなければこの計画は策定不可能と思われますので、これこそが関毅氏の仕事だろうと類推する理由です。この世界恐慌であり昭和金融恐慌が吹き荒れる時期によくこんな優秀な人材が創業間もない当社に在籍していたものだとも思いますが、一つには創業者浅野總一郎の人脈力と、もう一つはこの国の経済成長発展過程で、時代のニーズが建設や鉄道、鉄鋼業など重厚長大産業育成とインフラ整備であったこともあり、時の優秀な学生が集まる魅力的な産業・業種であったからであろうと思われます。

 当社の鐵道事業は主に埋立地進出企業から出資を募り、それを原資として第一期工事(濱川崎から辨天橋間)を完成、貨物運輸を開始しつつ利益を具現化することで配当重ね、魅力ある投資先として認知されることでさらなる増資を実現、一方で鐵道財団担保にて金融機関から借入金を調達、更に第2期工事(辨天橋―鶴見駅間)を推進し、旅客事業を確立する。この好循環の延長で、資金調達を実現し矢向の新鶴見操車場を目指し、一方で濱川崎から羽田を経由して大森駅まで延伸する。概略そのような事業戦略であったと思われます。

 そういう意味で、昭和5年下期から昭和13年上期は昭和恐慌の影響により無配となって、株金は昭和6年から昭和12年まで475万円で新たな増資も叶わず(未払込株金は減少している)、一方で海岸電気軌道鰍フ合併による債務引受けも重なり、恐慌の影響で沿線企業ですら出資を渋る時節、金融機関からの融資には経営者の連帯保証を求められるなど、資金繰は相当厳しかったものと推察されますし、資金繰がまさに生命線であった、こうした時期に経営を主導したのが関毅氏であったものと思われます。この書類はほぼA4サイズで28ページに及びますが、同一人物がすべて書き下ろしております。技術者であった関毅氏がこうした経営管理の知識を吸収したのは恐らく東京湾埋立でプロジェクト推進する際に必要となりますのでそこで学んだのではないかと推察されます。
 
 因みに、建設工事については第1期工事(濱川崎から辨天橋間)から第2期工事(辨天橋から鶴見駅間)、そして扇町線、電化工事を織り込み、将来的には浜川崎辨天橋間は3線とする必要があるとし1線増設するべく埋立會社と予約しておくべきと記載されております。この一線増設については15年後の戦時買収1年前、昭和17年7月20日付重役会決議にて決議されております。なお、十年先を見た長期計画であった為か、実際のところ未成で終わった大森線や矢向線はこの計画には盛り込まれておりませんでした。予定調和なのか不思議な気もしますが新線が実現しないことまでを見通した訳ではないと思いますが…。