鶴見臨港鐵道株式会社

◆悲運の経営者

 戦争と時代に翻弄された当社の歴代経営者の中から悲運の経営者をご紹介します。
 第五代目社長 廣川 與喜松 であります。
 廣川氏は明治33年12月17日広島県三原市にて生を受け、長じて大正15年3月京都帝国大学経済学部を卒業、昭和2年鶴見臨港鐵道に入社しております。その後総務課長、総務部長を経て昭和20年6月に取締役に選任され、24年には専務取締役、29年1月には代表取締役社長に就任、以来30年8か月の長期に亘り社長として経営の重責を担い、昭和59年春以来病床に臥され8月15日83歳で在任中に逝去されました。
 
 8月17日社葬でお見送りしておりますが、その際弔詞を読まれた東亜建設工業株式会社 代表取締役会長 中込末次郎氏の文書が残されております。一部引用致しますと


・・・(略)・・・
 このたび鶴見駅西口の社有地にあなたが手塩にかけた会社の将来を支える鶴見臨港鐵道ビルの建設を御計画になり、去る三月二十四日その起工式が行われました。その時の喜びにあふれたお顔、そしてその御挨拶で永い時間をかけて会社の歴史を力強く語られた元気なお姿が強烈な印象となって私の目に焼き付いております。
 おそらくあなたはこの駅ビルの完成を会社への大いなる遺産として心に期するものがあったと思います。その完成を待たずに急逝されましたことはまことに残念でなりません。
 残された役員、社員の皆様、また工事を施工する弊社はあなたが御期待どおり、立派なビルを完成させますので、安らかにお休み下さい。
 あなたは忽然として八十三歳の天寿を全うされ、世の無常を感ずるばかりでありますが、あなたのご遺徳を偲ぶ方々はあなたに対する想いを御遺族、会社の役員、従業員の方々に馳せ、永く見守って下さることでしょう。私どももまた鶴見臨港鐵道株式会社のため引続きできる限りのご協力をいたす所存でございます。
 ここに故廣川 與喜松殿の御逝去に深く哀悼の意を表し御生前の御交誼に心から感謝申し上げご冥福をお祈りして弔詞といたします。

昭和五十九年八月十七日        東亜建設工業株式会社
                   代表取締役会長 中込 末次郎


 当社を含めて多くの企業や国民が戦争に翻弄され、当社については帝国政府による戦時買収という今から思えば合法ではあるが極めて理不尽な施策により換金できない戦時公債と交換で本業を収奪され、戦後のインフレで昭和23年5月期から昭和34年9月期まで十年以上の長期無配を余儀なくされ、昭和30年代には水銀灯の販売やビニール塗料の原料を販売するなど苦難の時代を過ごします。
 そして昭和35年頃鶴見駅西口の臨港ビル計画が浮上するものの横浜市より国鉄線横断道路建設の話が出て、道路位置の協議、並行して鶴見駅西口再開発との兼ね合い、及び隣接する国鉄との建築方式の協議、国鉄の財政上の問題、オイルショック・景気変動なども重なったことで大幅に遅延し、計画浮上から四半世紀後の昭和59年3月に漸くビル建築工事を着工することができました。廣川氏はその完成を見ること叶わずその年の8月に逝去され、当社の経営はこの駅ビルの竣功を機に安定成長期を迎えます。

 時代の変化の中で不器用な生き方をしたと思われる経営者もいたということ、恐らく廣川氏にしてみれば鶴見臨港鐵道の歴史と経験が正にかけがえのない誇りであり、似た境遇にあった南武鐵道が昭和46年に南武不動産に社名変更しても、頑なに鉄道会社の社名を守ってきたのは、先輩諸氏に対する忠義と会社の歩みに対する誇りであったろうかと推察します。
 移ろいゆく時代の波に揉まれ犠牲となったかに見える先人の奮闘のお蔭で当社の今日の安定があるということ、そうしてまた今日も鶴見線が変わらず元気に走っている姿を見て後世の人々もさまざま思いを馳せて頂ければ幸甚です。