バス事業への進出と別離 (敬称略)

臨港バス路線図 線路バス路線案内図


昭和06年10月22日 :乗合自動車東寺尾線(鐵道線本山駅〜鶴見駅〜東寺尾町寺谷間)(2.1km)の営業を開始。

昭和07年12月27日 :乗合自動車獅子ヶ谷線(本山駅〜鶴見駅〜獅子ヶ谷間)(3.9km)開業。

昭和10年03月30日 :川崎乗合自動車鰍ヨの経営参加(南部・京濱と3社で買収し共同経営とする)。

昭和12年11月18日 :昭和12年海岸軌道の廃止に伴い同区間にバス路線設置を契機として、バス部門を独立させ、鶴見川崎臨港バス鰍設立(資本金45万円)。
東京市麹町区丸ノ内壱丁目六番地東京海上ビルディング新館にて創立総会を開催する。

昭和13年05月01日 :全自動車運輸事業を鶴見川崎臨港バス鰍ノ移管(現、川崎鶴見臨港バス株式会社)

昭和13年05月31日 :鶴見川崎臨港バス鰍ェ川崎乗合自動車を吸収合併し、同時に社名を川崎鶴見臨港バス鰍ノ変更。

戦中戦後の状況   :昭和18年下期の決算書をみると総資産357万円、資本金180万円、総収入92.7万円、当期利益10万円、配当金5.2万円(年率7%)、当時の発行済株式3.6万株のうち当社が3万株余りを保有しておりました。昭和19年下期も総収入104万円、当期利益11.2万円、配当金5.9万円となっておりますが、昭和20年になって戦局が悪化し、上期は当期損失57.8万円となり繰越損失に転落しております。


昭和23年には企業再建整備法に従い、計画書認可申請書を日銀に提出し、認可を受け、特別損失319万円の計上、120万円の新株式増資を実施。同じ頃当社の役員を兼務していた各役員は辞任し、京浜急行電鉄と大和自動車交通が経営に参加。経営権が移行することとなりました



企業再建整備計画 :占領軍GHQによる戦後処理の一環で財閥解体が強力に推進され、戦時補償請求権や在外資産を有する資本金20万円以上の会社は、特別経理会社に指定され、21年8月10日現在でその経理を新旧勘定に分離・整理し、事業の継続に必要なものを新勘定に、戦時補償請求権打切りに伴う損失等その他を旧勘定として、企業再建整備計画を立て、主務大臣の認可を受けて再出発をすることとされた。

財 閥 解 体  :昭和22年から25年にかけて財閥解体を推進する持株會社整理委員会から弊社にも指示があり、原則として子会社役員の兼職を認めないとされ、財閥関係企業の保有する株式は従業員等に買入させるよう指示された。当社関連の対象會社は3社で川崎鶴見臨港バス鰍烽サの1社でした。

 当時の経営者からすれば、本業である鉄道事業は国によって戦時買収された上に、子会社3社の経営権も取り上げられたようなもので、その落胆は相当なものだったろうと推察されます。また戦時買収の際、バス事業を吸収合併していればどうであったか思いは尽きません。また戦時買収に至る過程で当社が多額の資金調達を重ねておりますが、これら子会社の増資資金も含まれておりました。ただ幸いなことに企業グループは離れましたが、3社ともに破綻することなく現在に至るまで企業活動を継続できていることは誠に素晴らしいことです。
 その後、川崎鶴見臨港バス鰍ヘ平成18年4月には、京浜急行電鉄株式会社による完全子会社化に伴い株式交換することとなり応じることとなりました。

現在のJR鶴見線鶴見-国道間の線路下には、当時のバス駐車場の跡が残っています。