第5章 戦後不動産事業への転進


昭和18年7月1日
 昭和18年7月の全線国有化に伴い、主要な営業種目であった鉄道事業から撤退することとなり、弊社の収入高も約5分の1に大幅な減収となりました。
昭和18年11月30日
 時代の流れに翻弄されつつ、今後の会社経営方針について、同年11月30日開催臨時株主総会にて白石元治郎社長の発言を議事録から引用すると、「当社営業鐵道線全部政府ニ買収セラレ今後ハ政府ノ指示ニ基キ実質上證券保有会社として存続スル次第ナルニ付キ当分交付国債ノ利息、其他ノ雑収入ヨリ収入ノ途ナキ為出来ルダケ経費を節減シテ今後会社経営ヲナストモ右収入ノミニ依ルトキハ年四分五厘程度ノ株主配当ヲ為シ得ルニ止ルヲ以テ当分ノ間政府買収ニヨル差益ヲ切崩シ年七分乃至六分ノ利益配当ヲナス様ニ致シ度ク」(議事録原文まま) 
戦  後
 株式配当については、昭和22年11月の決算まで配当金が分配されていますが、それ以降無配となり、昭和30年9月決算まで無配継続となります。
昭和24年
 戦後間もない、昭和24年には、弊社が主唱し、同じ境遇にあった被買収鉄道会社各社に働きかけ、各社と連合して「被買収鉄道還元同盟会」を結成しました。第5会国会で鉄道還元法案「戦時中政府が買収した鉄道の譲渡に関する法律」案が審議され、衆議院で可決されましたが、参議院で審議未了となり廃案に追い込まれました。
昭和26年
 昭和26年に再上程されましたが、前回同様審議未了となり、鉄道還元運動は終息せざるを得ない情勢となりました。
昭和31年頃
 ビニール塗料原料や高圧水銀灯の販売も手懸けました。 
昭和34年頃
 昭和34年頃になって、戦前から所有していた新線鐵道用地で現在のJR鶴見駅西口に隣接する社有地を活用した「臨港ビル計画」が浮上しました。
昭和38年11月30日
 第72回定時株主総会にて定款変更が決議され、会社の目的に「不動産の売買、賃貸借及び観光事業」が追加されました。
昭和59年3月
 昭和34年頃には臨港ビル計画・基本設計概要も出来上がっていましたが、横浜市より国鉄線横断道路建設の話が出て、道路位置を協議したり、並行して鶴見駅西口再開発との兼ね合い、及び隣接する国鉄との建築方式の協議、国鉄の財政上の問題、オイルショック・景気の変動なども重なったことにより大幅に遅延し、昭和59年3月に漸くビル建築工事を着工することができました。
昭和60年10月
 鶴見西口駅ビル「ミナールビル」が竣工し、営業開始。ビル賃貸事業へ本格的に進出することができました。
平成6年2月
 「東亜ハーモニー鶴見寮」を竣工稼働しました。 
平成24年8月
 「鶴見四季彩」が竣工稼働しました。
平成28年2月
 東亜建設工業鰍フ「技術研究開発センター」を竣工稼働しました。


外観南西面